西武沿線完歩の旅2020(2020/4/19〜2021/2/23)その12

022020/10/11 所沢→南大塚 15.0km(歩行距離 18.2km)

曇り空の今日は、新装なった所沢駅から。

12時33分 所沢市くすのき台一丁目

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再開業した南口改札内にはテラスが設置され、今日も行き交う電車を眺める親子連れの姿が見られた。最終的には人工地盤で東西を一体化する計画だったと思うけど、所沢市の財政次第なので日の目を見ることはあるのかな?

12時36分 所沢市日吉町

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現在進行形の所沢駅西口エリア。駅前広場を取り囲むペデは、車両工場跡地の再開発エリアへと延伸が行われている。商業施設ができるのは少し先のことにはなるけれど、丸井やイオンの撤退など後ろ向きな話が多かった中なので期待したい。

イオン跡地で買い物をしてから、ファルマン通りを北へ歩く。そして飛行機新道へ折れると、やがて緑色のガードを渡る新宿線と再会する。

12時53分 所沢市御幸町
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飛行機新道はその名のとおり、所沢飛行場正門へのアクセス道路として1911年、竹やぶを拓いて新設された。東川に架かる旭橋は1930年に架け替えられたもので、意匠が凝らされた重厚な高欄が変わらず残っている。

ガードの左手には所沢飛行場前駅(所沢御幸町駅)があったが、その後移転し現在の新所沢駅の母体となっている。

12時57分 所沢市並木一丁目
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航空記念公園南側の国道は、日本一長いのケヤキ並木とのこと。1981年の住居表示施行にあたり、旧飛行場一体を「並木」とした。黄色く彩られ始めた歩道から坂を上がり、線路沿いの道路に出ると、向こうから航空公園の駅舎が近づいてくる。

13時6分 所沢市北有楽町
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その「並木」に所沢市役所が移転してきたのは1987年のこと、それに4か月ほど遅れて航空公園駅が開業した。住宅地の中にある西口は、開業当時はまだまだ農地の多いエリアだったけれど、それもすっかりアスファルトに固められている。

13時10分 所沢市並木二丁目
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橋上駅舎を渡って東口は市役所の玄関口で、ガラス張りの明るい駅舎と駅前広場を持つ。駅周辺は公園のほか公共施設や集合住宅が立ち並んでいるけれど、航空基地だった経緯から防衛庁施設や官舎が多く、一般向けの住宅はあまり多くない。

1960年代までは新所沢を起点として、基地に向け多数の引込み線が現航空公園駅のすぐ北まで押し寄せていた。

13時14分 所沢市喜多町
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航空公園を出ると線路の西側に沿って、新所沢の手前まで道が続いている。両駅間は1kmちょっとの距離で、直線の先に隣の駅が見通せる。1950年ごろまで所沢~本川越間に目立った集落はなく、それがこの区間の線形の良さに表れている。

13時27分 所沢市緑町一丁目
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引込み線の面影を残す長い側線を眺めながら、駅周辺の商業地を抜けると新所沢駅西口に到着する。1950年代後半以降駅から概ね1kmの範囲で区画化が進み、続々と住宅団地が建設された。高度経済成長の町と言える。

13時30分 所沢市松葉町二丁目
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西側に続いて東側も開発が始まり、それにあわせ西武初の橋上駅舎が1962年に完成、東口が開設された。ただ駅東側は僅かな住宅地を挟んで旧飛行場の敷地が米軍施設として残るなど、返還が進んだ今でも居住エリアは広くない。

13時44分 所沢市向陽町

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新所沢を出て区画された一画を抜けると、しばらくは農地の区画のまま宅地化が進んだエリアが続く。狭山市方面に向かうにはこの県道しかなくて、時々裏道を使いながらも基本的に単調な県道ウォークが続いていく。

13時53分 所沢市北岩岡
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そんな住宅の風景もやがて途切れると、沿線には壮大な田園風景が広がってくる。このあたりに計画された南入曽新駅は地主の反対で断念したと言われるけれど、世は成田闘争の時代、「おらが畑」の意識が特に強かったのかもしれない。

13時56分 所沢市岩岡町
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県道との踏切を越えると線路が幾重にも分かれ、南入曽車両基地が広がっていく。車両基地の開設は1969年で、小手指車両基地開設から僅か3年後のこと。しかし収容両数でも周辺の市街化でも、小手指とはすっかり水を開けられている。

13時59分 狭山市水野

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車両基地が途切れるあたりから、県道沿いの風景も次第に人いきれを取り戻す。1895年に川越鉄道が全通した際、所沢の次の駅は入曽だった。駅南側を踏切で渡る通り沿いと、北側の不老川周辺にそれぞれ南北入曽の集落があった。

現在は駅の南側を中心に大規模な開発が行われ、閑静な住宅地が形成されている。

14時22分 狭山市水野

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国道から折れたこの道が、南入曽集落のメインストリートだったところ。駅近くながら開発とは無縁で、曲がりくねった道沿いには敷地の大きい、恐らく昔ながらの農家が残っている。奥の踏切で久しぶりに、線路と再会する。

14時25分 狭山市南入曽
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踏切を渡って右に折れ、突き当りが入曽駅西口。出入口の裏手には、駅ホームに隣接して通称「駅前茶畑」が広がっていた。しかし、駅に接する区画は駐車場に変わっており、他も更地化されこの13年で完全に消滅してしまったようだ。

14時26分 狭山市水野f:id:monif_0321:20210209222305j:plain

東西自由通路がないため、東口には踏切まで戻って迂回する必要がある。

改めて眺めると入曽駅のホームは2面4線対応になっていて、これは新所沢以北に退避可能駅はないための措置だろう。もうこの設備が生かされることはないだろうけど、一体どういう運行計画だったのか気になるな。

14時29分 狭山市南入曽
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もともとの出入口だった東口。駅の並びに西武らしいミニ商店街が生きているものの、いちばん手前にあったお花屋さんはなくなったよう。駅前のバス停から発車するのは、新狭山行きの西武バスが1本と、あとはコミュニティバス16本のみ。

14時29分 狭山市南入曽
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13年前と変わらず…というか13年分古ぼけた駅前風景、駅前タクシーって地方でよく見かけるけど…。コンビニ手前の道が県道に真っすぐ伸びる駅前通りで、駅が町の中心だった時代を感じさせる。沿道の商店とかはもう、ボロボロだけど。

14時48分 狭山市北入曽

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駅から県道に出て、またしばらくは県道ウォーク。不老川を渡って北入曽の集落を過ぎると、茶畑の風景が広がってくる。狭山茶の畑が多いのは入間市で、次いで所沢市狭山市となっているらしい。全体量がそもそも少ないんだけど。

14時55分 狭山市富士見二丁目
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やがて線路は自衛隊入間基地とコーセー狭山工場に挟まれるため、外界とは完全に遮断される。ひたすら県道を歩いていくと、やがて両側とも普通の住宅地に取り込まれ、狭山市の手前で入間川に向かってぐっと高度を落としていく。

15時14分 狭山市祇園
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新宿線は所沢と川越の間を「く」の字で結んでおり、狭山市はその折れ曲がった地点にある。駅は2011年に建替えられ、ステーションビルのあった東口は壁面緑化のある洒落た外観に変わった。駅ビルのドトールで、しばし休憩とする。

16時12分 狭山市入間川一丁目
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橋上駅舎を渡って東口は、目を疑うほどの大きな変貌を遂げていた。立ち退き前の商店が並んでいた駅前には、ペデにより歩車分離された立派なロータリーが整備され、ガラス張りの「狭山市市民交流センター」が鎮座することとなった。

16時13分 狭山市入間川一丁目
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正面口として平屋の駅舎があった西口も、建て替えにより面影は一掃された。駅に接続するペデは駅前広場を越えて、旧入間川小学校跡地に整備された「西口市民広場」までを結び、広場を経由して旧市街地へのアクセスが向上した。

ちょっと寒々しく見えるのは、人影がほとんどないからだと思う。駅ビルに押されて駅前の西友が閉店になったり、思うようにいかないところもあるよう。

16時20分 狭山市入間川二丁目
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駅前の道を北へ下ると、線路は長い築堤上に続いていく。新宿線入間川の崖線付近を通過していて、古くからの市街地はその西側の低地帯に広がっていた。若干範囲は広がったものの、時代が下った現在でも大きくは変わっていない。

16時28分 狭山市入間川

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築堤にはいくつかのガードが穿たれ、過去の未解決事件の場面としても登場するわけだけど、そのことは特に書かない。

そのうちの一つをくぐってみたところ、眼前に広がった風景がこれだ。畑以外に見えるのは中学校程度で、雑木林の向こうもまた畑である。その事件は1960年のことだけど、当時から風景はあまり変わっていないのかもしれない。

16時48分 狭山市東三ツ木

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築堤が終わって狭山環状有料道路を越えると、道路は大きく線路を外れてしまう。曲がりくねった旧街道を歩くと、少しずつ沿道は市街化されていく。一方で線路は入間川と不老川に挟まれた舌状の台地上に、真っすぐ続いて行く。

16時53分 狭山市新狭山三丁目
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交差点を左に折れると、新狭山駅南口に到着する。新狭山は1964年に開業した比較的新しい駅で、南大塚との間に川越狭山工業団地が開かれたことに伴い設置された。以降周囲は宅地化が進んだけれど、以前は何もない大畑作地帯だった。

16時56分 狭山市新狭山三丁目
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北口は併設された商店に埋もれ、出入口がどこかよくわからない(笑 駅周辺は500mほど離れた国道16号までが区画化された新市街となり、国道を渡った先が旧奥富村時代以来の集落である。入間川沿いにはかつて、多くの新田が拓かれた。

16時58分 狭山市新狭山三丁目
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新狭山を出ると間もなく、線路は川越狭山工業団地に飲み込まれる。開設当時は日本一の規模だったこの工業団地も、駅最寄りでいちばん目立つホンダ狭山工場の移転が決定し、地位の低下が避けられない状況となっている。

ホンダは狭山工場の機能を順次寄居に移管していて、2020年10月には建設費用を負担して東武東上線に「みなみ寄居駅」を開業させている。

17時14分 狭山市新狭山一丁目

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ほんっと、秋の日はつるべ落とし…。淡々と連なる工場地帯、電線にはムクドリの群れが騒ぎ立て、時に空を黒く染める。工業団地は「首都圏整備法」に基づいて整備されたものだけど、狭山市の人口も減少に入り、時代の曲がり角を感じる。

17時26分 川越市南台三丁目
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工業団地を抜けると前方に南大塚駅の明かりが見え、ほどなくして北口に到着する。かつて北側から安比奈線が分岐していてほか、1970年代には南側に留置線を抱えていた。現在のホーム配置は、準備工事というより当時の名残といえる。

終点まであと一駅ながら、今日はここで終わりとする。狭山市ドトールに入らなければ行けただろうけど、まぁそれはそれで。


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