西武沿線完歩の旅2020(2020/4/19~2021/2/23)その6
2020/5/17 国分寺→西武園 10.2km(歩行距離 13.5km)
12時42分 国分寺市本町三丁目
カーソルオンかタップで2007年10月28日の写真へ
国分寺で降りたのって本当に久しぶりだと思う。まだ再開発に着手もしていなかった北口には、商業施設と一体の駅上マンションが誕生。駅前広場も整備が進んでいて、長らく残っていた多摩湖線旧駅の痕跡も完全に消し去られた。
それにしても駅舎の前にもう一つビルを建てるって、発想なかったな。
12時48分 国分寺市本町四丁目
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多摩湖線の連絡通路をくぐって、中央線と国分寺線を跨ぐ花沢橋へ。国分寺線の前身の川越鉄道は、中央線の前身である甲武鉄道も出資し、1894年に支線格として開業した。そんな経緯が、国分駅のホーム配置やこの風景に表れている。
右手の法面が防護されてるけど、西武は多摩湖線の事故以来、斜面を見ると何かと手を入れるようになった。
12時54分 国分寺市西恋ヶ窪一丁目
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花沢橋の袂から、野川の作る谷底へ下りていく。野川の源流は日立中央研究所の中にあって、滅多に見ることはできない。流れは線路を暗渠でくぐって、中央線の反対側に再び顔を出し、そこに「野川上流端」の標識が立っている。
12時56分 国分寺市西恋ヶ窪一丁目
遊歩道を下り切って国分寺線をくぐると、こんどは住宅地の中を急勾配で登り返していく。このあたりで線路は築堤から掘割に変わり、その中にある羽沢信号場から次の恋ヶ窪までが、国分寺線唯一の複線区間になっている。
13時11分 国分寺市西恋ヶ窪一丁目
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しばらくすると再び線路は築堤に上り、1973年に開業した武蔵野線のトンネルを越える。このトンネルの設計が建築限界ギリギリだったらしく、その上の部分だけ国分寺線も不自然にちょこっと盛り上がっている。
13時16分 国分寺市西恋ヶ窪四丁目
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沿線は住宅地が続くものの、時折伸びやかな畑の風景も広がってくる。国分寺線は全線にわたって線路沿いの道がほとんどないため、こんな距離感でひたすら歩いていくことになる。こんなところでも、13年前からだいぶ緑は減っている。
13時18分 国分寺市戸倉一丁目
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小ぢんまりとした市役所通りを渡ると、恋ヶ窪駅に到着する。恋ヶ窪は1955年に開業したこの路線では比較的新しい駅で、近くには国分寺市役所が立地する。その市役所は、2024年を目途に西国分寺駅付近に移転するらしい。
中央線と駅勢圏が重なるため、利用者は鷹の台や小川の半分以下と多くない。
13時22分 国分寺市戸倉一丁目
駅の北側すぐのところでは、都市計画道路府中所沢線の工事が進められている。アンダーパス部は2012年に着工、2018年度末には一通り完成したとのことで、復旧した線路に対し架線柱が斜めに、道路にあわせて立っているのが面白い。
13時26分 国分寺市戸倉一丁目
このあたりは線路と道路が並走する、国分寺線では貴重な線路沿いウォーク区間(笑 通過する電車は変化がなくて面白くないものの、設備を最大限に活用した日中毎時6本、ラッシュ時8本の運転本数は単線としてはなかなか多い。
ただ夜間はがくっと本数が落ちるのは、沿線に住んでる時ストレスだった。
13時40分 国分寺市上水新町三丁目
国分寺線の沿線は、昔ながらの畑の地割りそのままに、宅地化が進められてきたところ。五日市街道の手前あたりから、線路方向に通り抜けできる道が本格的になくなってきた。行き止まりや私道が多く、地図を見てもルートがほんと難しい。
ただ、玉川上水をはじめ緑の多い街並みは落ち着いていて、利便性と環境のバランスが取れた町だとは思う。あとは何を求めるかなんだろうな。
13時44分 国分寺市上水新町三丁目
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毎度も同じものを紹介するようだけれど、鷹の台手前で玉川上水の支流を渡る、レンガ積みの小さな橋梁。恐らく開業当時のものと思われ、そうだとすると西武鉄道で最も古い施設のひとつということになる。
ここから駅まで僅かな区間、道路沿いには小さな商店が並んでいる。
13時46分 小平市たかの台
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鷹の台駅は1948年の開業で、それは駅東側に立地する津田英学塾が津田塾大学に改組された年でもある。駅から西に真っすぐ伸びる道が商店街となっていて、白梅学園をはじめ多数の学校が集積したエリアになっている。
駅名板が更新されたのはいつなんだろうねぇ、なんか色褪せちゃってるけど。
13時48分 小平市たかの台
駅北側の踏切まで線路沿いを歩くと、そこから先小川にかけては道がないどころか、遠大な行き止まりまである高難易度ゾーン(笑 そう言えば昔、終電で小川に着いて鷹の台まで、道路じゃないところを歩いて帰ったことが…。
14時1分 小平市小川町一丁目
青梅街道から小川駅方面に道を折れると、住宅地の先に拝島線の踏切が現れる。踏切は線路が90度向きを変える途中にあって、複線かつカントが大きいためこれをガタガタと越える。線路は右手で国分寺線と合流し、小川駅に進入していく。
それにしても標識が手前すぎないか?
14時9分 小平市小川東町一丁目
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商店街を歩いていくと、やがて小川駅西口に到着する。都市計画制限でくたびれた建物が多く、左手のセブンイレブンもよく見ると昔ながらの看板建築だ。
小川は1894年に川越鉄道が国分寺~久米川仮駅間を開業した際、唯一設置された中間駅だ。そのため正面口だった西口は商店街の成立も早く、駅前広場とは今日まで無縁だった。しかしそんな西口も、ついに再開発事業が動き始めたよう。
14時10分 小平市小川東町一丁目
この駅はまた、東側に陸軍兵器補給廠、西側に専用線を介して日立航空機立川工場に接続する軍需貨物駅だった。1960年に陸軍跡地がブリヂストン東京工場となった後も、1981年まで貨物輸送は続けられていた。
1964年の橋上化にあたっては、側線一本を斜めに横断するため、東口との間に印象的なドーム屋根の連絡通路が設置された。
14時13分 小平市小川東町一丁目
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自由通路を渡って東口へ。エレベータが設置された今となってはわかりづらいけれど、駅舎はいくつもの曲線が組み合わされた意欲的なデザインだった。それだけにエレベータ棟の、無粋な直線的デザインが残念に思う。
なお、左手の桜には「昇り亀」という縁起のいいコブがあるそうだけど、見てもどれなのかわからなかった(笑
14時19分 小平市小川東町一丁目
駅北側の踏切付近は鉄道敷が広く、ゆったりした線路配置に有効長は相当に長い。武蔵野線開業前はタンク車を連ねた貨物列車が国分寺まで来ており、鷹の台、恋ヶ窪ともども有効長はまさに貨物時代の名残りだ。
14時30分 東村山市富士見町五丁目
踏切を渡ると線路と道路は完全に離れ、ひたすら「次の駅に向かって歩く」旅へと趣旨が変わる(笑 野火止用水を越えて北側は、旧軍需省、後に通産省機械試験所の敷地だったところで、周回路が中央公園、周囲は団地として再整備された。
前方に立ち塞がって見える築堤は、西武多摩湖線のそれである。
14時42分 東村山市美住町二丁目
坂を下ると道路はその先で空堀川を渡り、新青梅街道に突き当たる。歩道橋から少し遠方には、国分寺線の薄っぺらいガーダー橋が見える。道路右手の空き地もあわせて越えているのは、そこに改修前の空堀川が流れていたため。
開業当初の久米川仮駅は、空堀川を渡る手前、写真の右手に設置されていた。
14時50分 東村山市美住町二丁目
そこからは右左折を繰り返して、線路に対し45度の角度で歩いていく。
東村山駅は現在連立工事を行っていて、2021年度から順次高架に切り替わっていく予定。新宿線が合流するこのあたりでは、新宿線下り線が国分寺線を上越しし、立体交差とする予定になっている。
14時53分 東村山市野口町一丁目
駅南側の踏切からは、工事の様子が間近に見上げられる。現在、工事のため西側の旧1番線が撤去され、3番線が支線2線の縦列になっている。最終的には3面6線が2面4線に集約され、駅の東西にスペースが捻出されるよう。
ホームが減ることで、国分寺線が直通主体になれば便利なんだけどね。
15時1分 東村山市野口町一丁目
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東村山駅西口は、13年前とは大きく変わっていた。駅前には再開発施設、ワンズタワーが2009年に竣功し、こんどは高架化に伴い橋上駅舎が2019年11月に閉鎖、地下の仮改札口に移行した。その地下道の出入口が左手前にある。
引き続いて、奥に見える旧駅舎の解体が始まるところ。
15時1分 東村山市野口町一丁目
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駅前の商店街も、駅前広場の整備に伴いざっくりと削られた。それでも道路の北側を中心に、以前あった古い商店がまだまだ残っている。ただ最終的には、ここも含めた広範囲が再開発によってクリアにされるらしい。
15時4分 東村山市野口町一丁目
駅北側の、5差路の交点にある大踏切も、連立事業によって過去のものになる。開業当時は単線で、列車も自動車も僅かだっただろうけど、その後の経済優先により危険性が顕在化した「負の遺産」が、ようやく解消できるとも言える。
15時9分 東村山市諏訪町一丁目
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新宿線と西武園線の分岐部にある踏切も、除却されるうちの一つ。新宿線と国分寺線は立体交差化するけれど、西武園線は新宿線下りと平面交差になる。
この分岐部分には、例によって戦後の糞尿貯留槽があった。奥に見える白い建物が西武鉄道の寮で、2011年に建て替えた際に貯留槽の遺構が出土し、今後は市が学術調査を行うとか。いやそれは是非、参加したいものだけど(笑
15時16分 東村山市諏訪町一丁目
ここから西武園線は左に大きくカーブを切る。線路と道路では曲線や勾配の規格が全然違うため、そういったところはなかなか追いにくい。団地の脇から前川沿いに出ると、その奥に連立事業終端付近の仮囲いが見えた。
このあたりまで来ると、住宅越しに遊園地の観覧車がちらりと見えたりする。
15時20分 東村山市野口町四丁目
駅から1kmも離れてないと思うんだけど、住宅地の中に纏まった畑の風景も増えてきた。再開発ビルのおかげで駅の場所は分かり易いけれど、東村山にタワーマンションは馴染んでない気がしないでもない。土地は広大にあるのにね。
ここで案内のとおり道を折れ、それでも迷いながら北山公園へ。
15時26分 東村山市野口町四丁目
公園入口の案内板には、旧塗装の西武電車が比較的忠実に再現されている(笑
西武園線もわりと複雑な経緯を辿った路線で、1930年に旧西武鉄道により東村山~村山貯水池前間が開業したのが始まり。大戦中の休止期間を経て1950年には西武園への分岐線が開業、翌年貯水池方面が廃止され今の形になった。
15時28分 東村山市野口町四丁目
線路の南に広がる北山公園は、川沿いの水田地帯を開発から守るため、東村山市が買収し整備したところ。花シーズンの今日は陽気もよくて、人出はそれなりに多い。水面には蓮の葉がいっぱいで、歴史の授業で習った銅鏡みたいでもある。
15時33分 東村山市野口町三丁目
公園の西端には隣接して北山小学校があり、地図ではわからないけれど学校の裏を通って踏切まで歩ける。写真の目線が少し高いのは、丘陵を整地した線路と学校との間で、歩行者道だけが残った尾根を律儀に越えているため。
この先右カーブをとなる現在線に対して、開業当時の旧線はここを直進、現多摩湖線の線路まで僅かというところに終点駅を設置していた。
15時36分 東村山市諏訪町三丁目
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線路は八国山緑地の広大な緑の南端を走る。緑地内の遊歩道へのアクセスにしか使えないこの踏切は、西武線随一の長閑さと思う。ここから分岐していた西武園線旧線については、資料がないのでまた掘り下げてみるつもり。
15時42分 東村山市多摩湖町四丁目
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緑地を抜けるとすぐに、住宅地の向こうに西武園駅が見える。村山貯水池アクセスのため1929年から翌年にかけバタバタと開業した3社の路線も、1945年には同一会社に統合され、後に西武園線は競輪場アクセスの使命を託された。
15時46分 東村山市多摩湖町四丁目
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掘割の中にある西武園駅南口は、平行する道路から跨線橋を介しアクセスしている。その途中に階段があったため、2015年にフラットな通路が最小限の範囲で(笑)追設された。ただ、接続する道路自体の勾配は車椅子では難しい気が。
15時47分 東村山市多摩湖町四丁目
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駅舎を抜け、北口に出るとスロープの先が西武園競輪場のゲートになっている。西武鉄道が提唱していた「東村山文化園」の施設のひとつだけど、このスロープの途中に都県境が入っていて、ゲートの場所は埼玉県所沢市だったりする。
15時48分 東村山市多摩湖町四丁目
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駅北口は化粧っ気のないコンクリート打ち放しの外観で、真上が道路になっていることは今日気づいた(笑 この上にはバスロータリーもあって、丘陵上に拓かれた松が丘住宅地を通って所沢に向かうバスが発着している。
まぁ多くの住民は、所沢に出るんだろうけど。
臨時の出札口や「手動」改札もあって、とにかくだだっ広い北口構内。競輪開催日は一杯になるのかもだけど、それを目にする日は一生来ない気はしている。公営ギャンブルとしてあちこち誘致された競輪も、明るい話は聞かないからねぇ。
とりま今日は支線2本完歩、しばらくはこんな感じで。
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