西武沿線完歩の旅2020(2020/4/19~2021/2/23)その7

武蔵境→是政 8.0km(歩行距離 10.4km)

14時50分 武蔵野市境南町二丁目
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それにしても暑い!

武蔵境駅は中央線ホームを間借りする形での営業も今は昔、2012年に一連の連立事業が完成し、見違えるように近代化された。駅南口には「エミオ武蔵境」がオープンし、弱小路線ながら西武の守備範囲もできたらしい。

15時0分 武蔵野市境南町四丁目

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親子連れで賑わう駅前から商店街を1ブロック抜けて、天文台通りを渡ると意外なほど落ち着いた住宅地に変わる。中央線沿線と言っても23区を抜けた武蔵野市の外れ、歩くにつれ郊外の雰囲気が色濃くなっていく。

15時5分 武蔵野市境南町四丁目
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やがて道路は、南へ向きを変えながら高架から駆け下りてくる、多摩川線の線路に行き当たる。傍らに立つ勾配標は30パーミリ近い数値を示していて、これは貨物輸送華やかしころは考えられなかった「電車用」の急勾配だ。

中央線上り高架が未完成だった13年前とさほど違わない景色だけど、中央線、多摩川線とも走る電車は全て入れ替えられた。

15時12分 小金井市東町三丁目

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古い鋼製の架線柱が並ぶ線路敷。

多摩川線は、川砂利輸送を目的とした多摩鉄道によって、1917年に境~北多磨(白糸台)間が開業した。1919年に常久(競艇場前)、1922年に是政まで延伸した後、1927年に旧西武鉄道に吸収され現在に至っている。

15時23分 小金井市東町四丁目
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新小金井までの区間は一部を除いて、道路が東西南北に走る中を線路が斜めに抜けていく。結果、線路延長の「ルート2倍」をきっかり歩くことになる(笑 新小金井駅近くは深い桜並木になっていて、新緑の木漏れ日が心地よい。

15時26分 小金井市東町四丁目
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新小金井駅は。1924年開業の中央線武蔵小金井駅に先駆けて、多摩鉄道開業と当時に設置された。「新」と名乗るのは、現東北本線を開業した日本鉄道が1893年小金井駅(栃木県)を開設しているため。

ツツジの花壇が綺麗に剪定された、住宅地の玄関らしい落ち着いた駅だ。

15時32分 小金井市東町四丁目
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以前は全駅が交換可能だった多摩川線の中間駅だけど、近年設備が順次撤去され、新小金井と白糸台の2駅に集約された。早朝深夜を除き、列車は12分間隔で設定され、この2駅で必ず列車の交換が行われる。

駅の南側からは、戦時中は中島飛行機三鷹研究所、戦後はその一部を生かした砕石工場への引込線が分岐していた。

15時42分 小金井市東町五丁目

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住宅地をしばらく歩くと、目の前から道路が消え失せるように、野川の作る谷へと落ち込んでいく。線路はそこを掘割から築堤へと極力勾配を抑えながら、最後はコンクリートの橋となって野川を越えていく。

15時44分 小金井市東町五丁目
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そんな築堤と「はけの道」とが交差する、丸く小さく穿たれたトンネル。開業当時から補強、補修の手を加えられながら、一世紀に渡り線路を支えている。東八道路から丘の上へのアクセスとして、自動車の通行は思ったより多いようだ。

砂利満載の貨物列車に比べ、現代の電車は軽くて物足りないかもしれない。

15時46分 小金井市東町五丁目

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二枚橋で野川を、横断歩道で東八道路を渡ってから、再び台地へと登り返す。多摩川線は3回に渡り崖地を通過するため、掘割や築堤の区間が多い。ここみたいな大規模な土工は、秩父線はともかく西武の他線にはない特徴だと思う。

坂の上はまた住宅地となって、次の多磨駅までだらだらと続く。

15時59分 府中市紅葉丘三丁目

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多磨駅は2020年度内の完成を目指し、現駅舎の南側に橋上駅舎を建設している。踏切から眺めると、電車の奥に鉄骨が立ち上がっているのが見える。工事に先駆け撤去された交換設備は、どうやら復元されず完成形になるようだ。

16時1分 府中市紅葉丘三丁目
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2001年まで多磨墓地前と名乗っていた駅前には、霊園の玄関口らしく墓石屋さんが立地するほか、西側の商店街には「霊園グッズ」屋さんが並ぶ。一方でバスロータリーのある東側へは、現状地下道を通ってのアクセスとなっている。

南側(奥側)から撮ろうとしたら、クロネコヤマトに視界遮られた(笑

16時4分 府中市紅葉丘三丁目

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住宅地の中で進む、新駅舎の建設工事。駅東側はもともと、飛行場や軍関係施設が立地していたけれど、2000年以降東京外語大が移転するなど民間活用が進んだ。橋上駅舎化による東口開設は、そんな背景に基づくものなんだろう。

なお西口側も更地化が進んでいて、今後駅前広場が整備されるとのこと。

16時11分 府中市紅葉丘三丁目
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新小金井〜白糸台も平凡な住宅地が続く。思えば武蔵境を出て以来、まともに線路沿いウォークをしていないような。途中、一か所だけ農地が広がるところがあって、門型の高圧鉄塔の下に続く線路を遠く眺めることができる。

高圧鉄塔は、西武多摩川線のトレードマークだ。

16時17分 府中市白糸台二丁目

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甲州街道の陸橋をくぐるとすぐ、住宅地の向こうに踏切が見えてくる。それを渡った突き当りが、多摩川線の車両を管理する白糸台車両基地になっている。所属4編成の小さな基地で、構内では「クマの薄い」ツートンカラーが休憩していた。

「基地」の右側に一文字分の余白はあるのは、2000年まで名乗っていた「北多磨車両管理所」の名残だろう。

16時21分 府中市白糸台二丁目
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多摩川鉄道開業当初は終点だった白糸台駅。駅に隣接して機関庫を持ち、広い構内に多数の貨車を抱えていた。駅の南側を交差する品川街道が大きく迂回させられているのは、広いヤードを確保するにあたっての苦肉の策。

貨物が廃止された今となっては、元に戻せそうな気もしないでもないけど。

16時21分 府中市白糸台二丁目

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品川街道の踏切あたりから眺める、白糸台駅構内。ゆったりとした配線の構内に、ちょっと見にくいけど左から赤青黄の電車がやって来た。1996年のワンマン化以来、多摩川線には3世代ぐらい前の電車が改造し投入されている。

16時23分 府中市白糸台二丁目
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多摩川へ向けた下り勾配は駅構内から始まって、すぐ先で京王線のガードをくぐる。京王線の急勾配はいかにも「電車」ならではで、同時期に開業した両線ながら、路線の性格の違いから競合関係と言うものはなかったと思う。

16時31分 府中市柳町三丁目
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多摩川の崖地を通過するため、線路は切通しと築堤でそこを下っていく。そのちょうど境目にある踏切は、13年前よりいくぶんさっぱりしたものの、雰囲気は多摩川線随一。山側が土留め、谷側が土嚢で補強されているところが崖線らしい。

16時39分 府中市柳町二丁目

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階段を使って崖下に降りると、ようやく線路沿いらしい道に出る。このあたりは市道の陸橋、歩道橋、中央道の高架が連続する、橋だらけの区間だ。崖下は農地など低地用地が多く、高速道路なんかは通しやすかったんだろう。

16時48分 府中市柳町四丁目
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線路は中央道をくぐると、築堤上を多摩川と並行となるまで、右に90度近いカーブを切って走る。ここは定番の撮影地なのか、カメラを抱えた人がちらほらと。全列車の塗装が違うという稀有な路線、本線系統にはない魅力がある。

16時54分 府中市柳町四丁目
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そんな線路沿いウォームも長くは続かず、住宅の頭越しに多摩川競艇場の歩道橋が見えてくると、その行きつく先が競艇場前駅北口だ。

常久駅として開業したこの駅は、1954年の競艇場開設にあわせ現駅名になった。開業当初は貨物専用で、この駅から東へ砂利線が伸びていた。また競艇場も元は砂利採取場で、是政まで一体的な貨物駅のようになっていたようだ。

16時56分 府中市柳町五丁目
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自由通路を渡って南口は、閑静な住宅地の中にある。コミュニティバスが発着するだけの小さなロータローは、最低限の手入れ程度でやる気が感じられない(笑 2~3分も歩けば多摩川の堤防で、対岸の耕作場へ「常久の渡し」があった。

16時58分 府中市柳町五丁目
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線路沿いに住宅地を歩くと、次第に多摩川の堤防が近づいてくる。戦災復興を支えた砂利採取は、河床低下等の問題から1964年に全面禁止となった。その後土地利用の転換が進み、このあたりが宅地化されるのは1970年代以降のこと。

貨物の留置線のあった線路敷は3線分ほどの幅があり、このあたりは目隠しの植栽が余った鉄道用地内に植えられている。

17時3分 府中市是政四丁目

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突き当たりから線路を北に渡って、多摩川線と並行する競艇場通りに出る。手前の工場も奥のマンションも、かつてはの砂利の採取場だったところ。工場に転用された後、奥については再転用された。こんな風景が、是政らしいと思う。

17時6分 府中市是政五丁目
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道端に唐突に現れる、いかにも中途半端な是政駅。採取場からの線路がこの手前で道路を渡って合流し、終点に至っていた。道路と線路との間を明確に区分するものはなく、今でも背の低いガードレールで仕切られる程度である。

17時8分 府中市是政五丁目
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かつてこの界隈は、「ジャリ穴銀座」と呼ばれるほど採取場だらけだった。中でも大きかったのが現在の競艇場であり、夏には子ども達が飛び込み犠牲者も少なからず出たとか。近現代史から読み解くと、多摩川線はなかなか香ばしい。

戦後には武蔵境から東伏見、成長期には白糸台から多摩ニュータウンへの延伸構想も出ては消え、相も変わらぬローカル線として今日も走り続ける。

17時10分 府中市是政五丁目
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13年前は1橋だけだった是政橋は、2011年に新橋が完成し上下線が分離された。新旧橋でケーブルの段数が違っているのは、コスト削減で橋脚を増やした結果。数億円か浮いたらしいけれど、これも中途半端だよね。

対岸には南武線南多摩駅があるので、10分ほど歩いて帰路はそちらから。往復とも多摩川線は利用せずだけど、普通に生活してたらまず乗らないよねぇ。


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