西武沿線完歩の旅2020(2020/4/19~)その9

2020年6月28日 小平→拝島 14.3km(歩行距離 16.7km)

14時22分 小平市美園町二丁目

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天候とやる気の問題で(笑、1か月ぶりとなった沿線ウォーク。

1968年に全通した拝島線は、沿線に開発余地も多く当時有望路線として謳われていた。当初の目論見は外れたものの徐々に利用者を伸ばし、近年は「拝島ライナー」が運行開始するなど、新宿線系統を二分する重要幹線に成長している。

14時26分 東村山市萩山町一丁目

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拝島線小平駅のルーツは、1929年に多摩湖鉄道が小平支線の終点として開業したもので、駅西側の踏切を渡った所沢方にあった。萩山付近で接続する予定だった(旧)西武鉄道のルート変更により、新たに接続駅として設置されたものだ。

駅を出ると線路に沿って、小平霊園への参道が続く。この春は外出自粛と不穏な天候続きで、毎年の花めぐりがほとんどできなかった。

14時31分 東村山市萩山町一丁目

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拝島線新宿線としばらく並走し、2つ目の踏切を越えた先で左へ大きくカーブを切って分かれていく。幹線級路線同士の分岐は所沢の前後にもあるけれど、しっかり並んでいる分こちらのほうが迫力がある。

14時36分 東村山市萩山町一丁目

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踏切を渡るとすぐ多摩湖自転車歩行者道が斜めに交差してくるため、そこを右折してしばらくは緑道を歩く。緑道は多摩湖から武蔵境の浄水場を結ぶ送水管の上を開放しているもので、花小金井から武蔵大和付近まで西武線との馴染みは深い。

14時38分 東村山市萩山町一丁目

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緑道と交差する踏切はS字カーブの途中にあって、電車は線路をきしませてここをゆっくり通過していく。開業当初の多摩湖鉄道小平線は、さらに左へカーブして移設前の萩山駅に接続し、国分寺へと向かっていた。

14時42分 東村山市萩山町二丁目
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緑道を少し歩くと、すぐ左手にメルヘン調の萩山駅北口が現れる。多摩湖鉄道時代の萩山駅は、国分寺から来た電車が多摩湖や小平へ向かう分岐駅だったけれど、西武鉄道に統合されて以降は、小平から拝島、多摩湖方面へと目線を変えた。

とは言え多摩湖方面への直通列車は、拝島線の拡充と裏腹に近年削減されている。

14時45分 東村山市萩山町二丁目

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平面交差を繰り返す拝島線、各駅の前後は分岐器マニアにはたまらないだろうな(笑 右手前に逸れていくのが小川方面の拝島線、直進する方が西武遊園地方面の多摩湖線だけど、多摩湖線が3線もあるのは駅付近は複線状+留置線のため。

正面が単純なダイヤモンドクロスになっていないのは、安全性の観点からかね。

14時47分 東村山市萩山町二丁目
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萩山を出ると、線路はS字を描いて多摩湖線から離れていく。この区間は1944年開通の陸軍小平分廠への専用線を利用していて、そこに接続するため苦しい線形になった。後にブリヂストンが進出し、1970年代末まで貨物輸送があったらしい。

工場を避けて北へ回ると、多摩湖線が意外と近くに並走していて、そちらの音が良く聞こえたりする。

15時2分 小平市小川東町二丁目
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府中街道に突き当たって左に折れ、2012年に立体化されたばかりの拝島線をくぐる。「めくるめく西武線との平面交差」だった府中街道も、連立事業中の新宿線が高架に上がれば、残る踏切は国分寺線との1箇所だけになる。

15時6分 小平市小川東町一丁目

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小川東町の交差点を右へ折れると、沿道は商店街崩れの住宅地となっている。「ブリヂストン城下町」として市街化の進んだこの界隈も、個人商店がマンションに変わっていく姿は万国共通なんだろう。

15時8分 小平市小川西町三丁目

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小川駅の北側の平面交差ポイントまで来ると、拝島線の高架橋はその直前で地上に降りていた。単独立体って何か勿体なくて、特に拝島線の場合は前後の駅が平面交差なだけに、お金のある時代だったら線形改良まで考えたかもしれないけど。

財布の紐が固くなる時代ではあるし、コロナの影響で赤字も膨れてるからねぇ。

15時12分 小平市小川西町四丁目
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一月半ぶりの小川駅西口。階段の下右手に交番があって、お巡りさんが道端に出てるから写真撮りづらい(笑 真っ直ぐに伸びる駅前通りの突き当りにある職業大学は、元々戦時中の職業転換を目的とした「東部国民勤労訓練所」だった。

この地域に市街地が形成されてきたのは、1950年代に入ってからのこと。

15時18分 小平市小川西町四丁目

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小川から西へと方角を変える線路を探し、新しめの住宅地を南下する。90度の弧を描く線路の内側には、大きな農地が広がっている。次の東大和市までは踏切の多い区間で、この写真の中にも私道踏切2つを含む計3つが存在していたりする。

15時24分 小平市小川西町五丁目

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線路沿いを右折して最初の踏切、これも立派に見えるけど私道踏切だ。

正面右手に教習場の建物が見えるけれど、そこがスイカ畑だった1958年、立川基地を離陸した米軍輸送機が墜落し、乗っていた129名全員が死亡するという事故が起きた。当時一面の農地だったここも、線路脇では戸建住宅の建築が進んでいる。

15時25分 小平市小川西町五丁目

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しばらくは、線路の北側に道路が続いていく。

13年前は右手側はほとんど農地で、遠くの丘陵まで見渡せたものだけど、いつしか住戸が並べられ雰囲気が変わっている。玉川上水までは日立航空機立川工場への専用線がルーツで、1949年に譲与を受け翌年に上水線として開業している。

15時44分 小平市栄町一丁目

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典型的な農地の「自家用」踏切、これでも前後の踏切を廃止し集約した結果だ。踏切の番号から見るに過去にはこの区間だけで26か所の踏切があったものが、今では公道6か所、私道10か所まで減らされている。いや、それでも多いけど。

15時47分 小平市栄町一丁目
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正面に下り坂が見えると、長く続いた並走区間が一旦終わる。坂を下り切って高架となった拝島線をくぐると、南側で青梅街道に合流する。青梅街道沿いは古くから住戸が並んでいたため、専用線は短冊状の畑を横断するルートを選んだ。

軍需線で早期開通が至上命題だったことが、現在に残る踏切祭りの主な要因だ。

15時54分 小平市中島町
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昭和の長屋的な個人商店が並ぶ街道筋を歩くと、間もなく青梅橋の交差点に出る。暗渠のためわからないけれど、高架の手前を野火止用水が横切っていて、そこに架かる橋の名前から開業当初の東大和市駅は「青梅橋」という名称だった。

15時57分 東大和市桜が丘一丁目
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東大和市駅は、1979年に青梅橋から改称、翌年に高架化が完了した。高架以前の線路は青梅街道との交差の関係で現在より北側に振られていて、道路の形に面影が残っている。駅前の一部はその旧線敷を活用したもの。

駅前にはスケートリンクとスポーツセンターが並んでいるけれど、これはバブル期にあった駅ビル計画の名残と捉えていいものか。

15時59分 東大和市桜が丘一丁目

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東大和市を出ると、線路沿いに作業路風の道があって、南に野火止用水の緑道、さらに南に車道と、線路を含め4つの「道」が並んでいる。緑道が市境になっていて、右手が東大和市、左手が小平市で、それも間もなく立川市に変わる。

16時7分 東大和市桜が丘三丁目

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線路が右にカーブするあたりから、北側には玉川上水車両基地が現れる。東大和玉川上水間北側の広大なエリアは、戦後米軍の大和基地として使用されていた。1973年の返還以降民間利用が進み、車両基地は1990年に開設されている。

なお、西武は米軍に接収される以前から、この土地を取得していたらしい。

16時13分 小平市中島町

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玉川上水駅の手前で、緑道は玉川上水と合流する。玉川上水の分流として開削された野火止用水だけど、東村山浄水場への送水路として生きているのは後者の方だ。分岐点の標識が、5月に歩いた鷹の台を示してるのがなんか嬉しい。

16時21分 立川市幸町六丁目
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玉川上水駅の南側は、水路の上部を利用して広場が整備されている。モノレール開業前は小さな駅舎があるだけで、大々的に再開発された北口と差をつけられていた。その駅舎が今でも、右手奥にボロボロになりながら残されている。

16時27分 東大和市桜が丘三丁目
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西武鉄道玉川上水駅の所在地は立川市だけど、モノレールの駅は東大和市にある。終戦近くになると、隣接する飛行機工場は執拗な空襲により壊滅した。駅から10分ほどの東大和南公園に、被災した変電所の建物が保存展示されている。

駅にあるマクドで遅めのお昼を調達、ここから食べ歩きに入る(笑

16時29分 立川市柏町五丁目

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13年前は線路北側の道に気付かず、佼成霊園や国立音大を大回りしてしまったので注意して見ると、モノレールの橋脚脇から不自然に繋がった入り口を発見する。地図を見たからわかったけど、一見さんお断りの敷居の高さのよう。

16時44分 立川市砂川町七丁目

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玉川上水からは、1968年開業の数少ない「新線区間」。次の武蔵砂川までは、複線用地を確保しながらの単線区間となっている。線路の北側にずっと道が続いて歩きやすいのはいいんだけれど、風景も変化に乏しくまぁ退屈だよねぇ。

16時52分 立川市砂川町八丁目
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延々と続く直線路(その名も「西武線北通り」)の先に、残堀川へ向けた下り坂が見えると少しほっとする。築堤となった線路脇になおも続く道路の正面に、武蔵砂川の駅舎が見えてくるわけだけど、13年前とは何だか様子が変わっている。

17時0分 立川市上砂町五丁目

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わかるかなぁ? 13年前は、正面に見える駅舎のすぐ右手に道路が避けて走っていた。それですら「道路が線路に負けてる」状態が面白かったわけだけど、今や新たに整備された駅前広場とマンションの外周を「Ω」状に大迂回させらている。

お金のない自治体とお金を出したくない鉄道会社が手を組んだ好例(笑 予想だにしない斜め上の展開に驚いた。

17時1分 立川市上砂町五丁目
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武蔵砂川は1983年に開設された駅で、請願駅として立川、武蔵村山の両市と、日産村山工場の玄関口として日産による費用負担が行われた。その後工場が閉鎖されたため、結果日産の置き土産のようになっている。

工場跡地の一部はイオンに変わったけれど、バスは玉川上水から発着している。

17時3分 立川市上砂町四丁目
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駅南口というか、築堤をくぐった南側は相変わらず。駅前の空き地が駐車場に変わった程度で、周辺はまだ農地が広がる。昭和記念公園への最寄りとしてPRはされているけれど、少し離れている上に風景的に辿り着けるか不安になりそう(笑

17時16分 立川市一番町四丁目
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武蔵砂川を出てしばらくは、残堀川の低地帯に盛土が続いていく。斜面を最大の敵とする(笑)西武らしく、ここの盛土もマットでしっかりと補強されている。線路沿いに続いてきた「北通り」は、五日市街道との立体交差で終わりを告げる。

17時19分 立川市一番町二丁目

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五日市街道から先は、13年前は南を流れる玉川上水沿いに歩いたけれど、地図を改めて見ると遊歩道らしき細線が見える。他人の家かもわからないような道を入っていくと、小さなガードをくぐった右手に遊歩道が繋がっていた。

17時22分 立川市一番町二丁目

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拝島線末端部らしい、高圧鉄塔が林立する風景。だらだらと続く遊歩道は、建設当時の地元要望だったのかな。ほんとに歩いていいものかやきもきしていると、やがて13年前にはなかった新興住宅地の舗装道に合流した。

17時31分 立川市西砂町一丁目
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開業以来40年間放置されていた西武立川駅は、周辺開発に先駆け2011年に橋上駅舎化された。とは言え駅舎は必要最小限で、ホーム上屋の延伸も見送られている。背後にそびえる星形の鉄塔が、ここが西武立川であることを示しているよう。

17時32分 立川市西砂町一丁目
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ガラス張りの駅舎に上がると、開発された南側の様子が見渡せる。バブル中に発表された当初計画は、ツインタワーを中心とした大規模なものだった。しかし共同事業者のリクルートコスモスによる疑獄やバブル崩壊で立ち消えとなった。

その後更地の状態が続いたものの、戸建て住宅中心に規模縮小されながら、2013年についに町開きを迎えている。

17時34分 立川市西砂町一丁目

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新たに開設された北口は、個人開発が入った程度で基本的に風景は以前のまま。

想像だけど、拝島線延伸工事を行っていた1960年代は、立川基地拡張に反対する「砂川闘争」の真っただ中。「おらが畑」意識の高まる中で、建設には細心の注意が払われたはずだし、周辺開発が遅れたのはそのあたりの背景があるのかも。

17時38分 立川市西砂町一丁目

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西武立川を出てからも、線路沿いにぴったりと道が続く。これ、13年前は何で気づかなかったんだろうね!? 拝島近くになると立川基地騒音対策の国有地が増えてくるんだけど、その手前まで途切れなく線路沿いに道が整備されている。

17時46分 昭島市美堀町一丁目

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小川のカーブを過ぎたあたりから、ほぼずっと線路沿いを歩いている。西武立川で再び単線となった線路は、終点の拝島へと向かっていく。線路敷は複線分あるけれど、玉川上水以西は朝ピークでも10分間隔だから必要性はないんだろう。

17時52分 昭島市美堀町一丁目

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拝島線の延伸に際しては、需要喚起のため様々な手が打たれたけれど、中でも特筆すべきは奥多摩湖エリアの開発だと思う。奥多摩駅から伸びる旧水道局工事線を買収するなど、箱根をライバル視した観光地化と、石灰石の輸送を目論んでいた。

しかしこういった計画は、開業を前にして見送ることとなった。

17時58分 昭島市美堀町三丁目
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ついに途切れた線路沿いの道から、踏切を北へ渡り「みほり広場」へ。その間を東西に横切る「堀向通り」を、是非とも再訪したかったのだ。13年前のようなイチョウの絨毯があるはずはないけれど、だいたいこの場所で間違いないかなぁ?

18時4分 昭島市美堀町三丁目
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横田基地エリアを抜けた道路は、深い緑に包まれた玉川上水を渡る。1653年に開削されたこの水路、現役であるこの区間はやはり水量も多く、事故や自殺が多く「人食い川」と呼ばれた過去も何となく想像がつくというもの。

18時7分 昭島市美堀町五丁目
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風景は住宅地に戻り、下り坂の先で拝島線のガードと交差する。ここも複線分の橋台に、桁が一本だけ渡されたもの。奥多摩開発の断念は、時勢の変化のほか国鉄側の乗り入れ拒否に譲歩し、拝島駅の共同使用協議を優先させたため。

18時10分 昭島市美堀町五丁目

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奥多摩湖開発計画は断念したものの、線路の北側に住宅団地「西武拝島ハイツ」を建設するなど、一定の沿線整備は行われた。しかし、オイルショック等による経済成長終焉のタイミングと重なって、スタートダッシュは大きく停滞した。

ただ、奥多摩開発が動き出していたら間違いなく経営は傾いていただろうから、別の理由で早めに断念できて良かったとも言える。

18時17分 福生市熊川
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右に大きくカーブした線路は米軍専用線と平面交差し、新装なった拝島駅にすべり込む。三角形の一辺を玉川上水、残りを線路に囲まれた北口は開発余地が少なく、駅舎の真ん中を昭島市福生市の境界が走る立地もあって概ね放置状態だ。

18時20分 昭島市松原町四丁目
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かつては西武が管理する平屋の駅舎があったけれど、2007年に橋上化され2010年には拡張工事も完成した。前駅舎時代はJRとの乗換えが改札内で、プリペイドカードが共通でなかった時代は逆に乗り換えが面倒くさかった。

それにしれも、オレンジカードとかレオカードとか、なくなってまだ7年とは思えないほどの遠い記憶なんだよなぁ…。


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