西武沿線完歩の旅(2007/9/2~12/16)その5

2007年9月23日 西所沢→稲荷山公園 8.7km(歩行距離12.4km)

14時25分 所沢市西所沢一丁目

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今日は西所沢から。いつの間にか、この電車見かけなくなった。

駅を出てしばらく北西へ歩を進めると、道路はその先柳瀬川支流の東川に向けた下り坂になる。細い道には古びた割烹や居酒屋が並び、束の間の昭和へとタイムスリップ…。坂を下り切り国道を渡ると、築堤となった線路に突き当たる。

14時34分 所沢市西所沢二丁目

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東川と一緒に、道路は1.8m制限で線路をくぐる。この制限高をはじめ、道路橋の古い高欄や石積みに歴史を感じる。ここから道路は上り坂となり、その先は平坦な土地に茶畑が広がる長閑な風景となる。

14時40分 所沢市上新井二丁目

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線路を跨ぐ歩道橋からの景色、まさにお茶どころ。写真右手の建設中のマンションは当然今では入居が終わり、人々の新しい生活が始まっている。

14時52分 所沢市上新井三丁目

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小手指が近づくにつれ、次第に区画された土地と比較的新しい戸建て住宅の風景に変わる。線路は周囲の地盤より若干高く、踏切はどこも取付けが急勾配の苦しいつくり。地形的には柳瀬川水系の谷底(氾濫原)にあり、鉄道を通すにあたり軟弱地盤等の理由があったのかもしれない。

駅前のマンション街が近づくと、その先が小手指駅南口。

15時3分 所沢市小手指町三丁目

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小手指は1970年に信号所から昇格する形で開業した駅で、宅地開発される以前は雑木林の中、川沿いに畑が拓かれたような、そんな土地だった。ほぼゼロからの町づくりだったため、駅周辺は綺麗に区画されている。

15時6分 所沢市小手指町一丁目

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北口は長らく駅直近の区画が未整備であり、少し駅から離れたところに西友が見えるという不思議な土地だった。しかしついに2012年「小手指タワーズ」が完成し、ニュータウンの面目躍如となった。

小手指」の由来は明確ではないが、1333年の新田義貞鎌倉幕府との「小手指ヶ原の戦い」まで遡る由緒ある地名だそう。

15時11分 所沢市小手指町二丁目

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駅の西北側、小手指陸橋の先には小手指車両基地が広がり、その延長は1km近くにも及ぶ。この段階で、車両基地の終端を見通すことはできない。

15時16分 所沢市小手指町二丁目

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車両基地の途中には歩行者の利便性を考慮し、延長100mほどにも及ぶ地下道が設けられている。しかしこれが狭山湖付近から流れてくる廃水路上にあるため、注意書きを見るとなんだか降雨時は水没するそうで…。

15時21分 所沢市小手指町二丁目

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西へ進むほど道路が線路より高くなり、車両基地の内部がよく見えるようになってくる。もうほんと、模型の世界の光景だよね。

車両基地の西側は一瞬だけ雑木林が残っているが、ここまで来ると狭山ヶ丘駅も近いため、すぐに周囲は住宅地に変わってくる。しばらく歩いた先が、狭山ヶ丘駅西口。

15時47分 所沢市狭山ヶ丘一丁目

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狭山ヶ丘駅は、旧武蔵野鉄道開業時からの歴史を持つ。1990年までセメント輸送があったため関係で構内は広く、今でも2線の側線が残っている。駅周辺はベッドタウンとして開発され、戸建住宅が立ち並んでいる。

15時49分 所沢市狭山ヶ丘一丁目

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駅の橋上化は1970年であるが、東口は土地区画整理事業とあわせ1993年に設置したもので、20余年のずれがある珍しいケース。そのため駅名の表示とか、西口と東口で意匠が異なっているのが面白い。

15時59分 入間市東藤沢三丁目

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狭山ヶ丘を出ると、線路は右に大きくカーブを切りほぼ北へ針路を変える。このあたりは細かく区画された住宅地となっており、次の武蔵藤沢まで距離がないため単調な風景が続く。

工事中の駅舎を右手に踏切を渡ると、武蔵藤沢駅

16時9分 入間市下藤沢一丁目

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このころ武蔵藤沢駅はちょうど橋上駅舎の工事中。駅の東口側では新しい商業施設が営業を開始していたが、この時点で東口の開設は間に合っていなかった。その後2008年に新駅舎が完成し、東西とも出入り口が開設されている。

16時11分 入間市下藤沢一丁目

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仮駅舎のように見えるけど、これ建て替えまで実際に使われてたものなんだよなぁ。

飯能方で線路を跨ぐ国道463号を、北西方面に歩を進める。このあたりになると道路標識にもいよいよ、「飯能」の2文字が現われてくる。

16時27分 入間市下藤沢一丁目

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茶畑と、文化住宅のような小さな木造の家々。それを取り囲むように建つ新しい戸建住宅。池袋線の沿線って、こういう木造家屋を多く見かける気がする。清瀬立体のあたりにもこんなのあったよね。もう家主のいない家も多かろうが。

16時27分 入間市下藤沢一丁目

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写真の奥で、線路は不老川を渡っている。川沿いは護岸ブロックが緑に覆われ、曼珠沙華が秋の訪れを感じさせる。「竹や竹の子を無断で取るべからず」なんて立て札もあって、郊外らしいいい雰囲気を醸し出している(笑

16時48分 入間市東町二丁目

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線路は航空自衛隊入間基地を横断するため、線路沿いのフォローは完全にできなくなる。しばらはく入間基地外周の緩衝地帯を歩くも、すぐに先ほどの国道に突き当たる。

このあたり、沿道には古びた建物が並んで雰囲気があったものの、現在では道路拡幅の事業が入り、様相は一変している。

17時4分 入間市向陽台一丁目

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かつての米軍ジョンソン基地は1933年に返還され、大部分が入間基地に、その他は公園や学校敷地に転用された。1998年に開園した「彩の森入間公園」を過ぎると、基地と学校のフェンスに挟まれた道がしばらく続く。

ちなみに跡地に設置された学校はざっと調べると…。

市立東町小1981年/県立入間向陽高1983年/市立豊岡小1984年(移転)/市立豊岡中1985年(移転)/県立狭山経済高1985年/東京家政大学1986年/市立東町中1988年

17時17分 狭山市稲荷山二丁目

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秋の日が傾くのは早い…。基地を半周した道路の先には、久しぶりの踏切と黄色い電車が。

17時18分 狭山市稲荷山二丁目

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稲荷山公園駅南口は、当時は早朝深夜は閉鎖される臨時口だった。稲荷山公園駅は三方を基地に囲まれ、西側も入間市駅が隣接しており駅勢圏が極端に狭いため、利用が伸びる余地は今後もあまりないだろう。

それにしても、稲荷山公園駅の場所というのはどうも不可解だ。「基地がなくなれば宅地開発できる」という堤家的な思惑があったとすれば、さすがの先読みだと思うけど(笑


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