東久留米駅構外線を歩く(2016/11/5)

すっかり秋色に染まった、東久留米駅西口。富士山を望むテラスが併設されたこの駅だけど、この時期のこの時刻は西日が完全に逆光になる。

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駅構内には側線数本分のスペースの余裕があり、下り線の池袋方では駐車場や駐輪場として使用している。これはかつての貨物側線の名残で、昭和20年8月の終戦まで軍需工場へ向かう引込線がここから分岐していた。

1947年の空中写真(国土地理院ウェブサイトより)。東久留米駅から分岐した引込線は、落合川を渡ったあと南に方向を変え、台地上に拓かれた工場へと達している。

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1979年も駅西側を中心に農地ばかりで隔世の感があるが、駅から落合川までの区間は既に失われており、また終点付近はひばりが丘団地に完全に飲み込まれている。

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1994年に開設された駅西口を出て、線路沿いに池袋方へ歩く。駅付近の引込線跡は判然としないが、写真左手の駐輪場から正面の住宅群を抜け、背後に控える西武鉄道変電所を通り過ぎ、落合川を渡る橋梁まで一直線に続いていたようだ。

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その住宅群を迂回すると、目の前に「西武鉄道管理地」の看板と、一見して鉄道のものとわかる築堤跡が現れる。ここは落合川を渡る手前に位置し、その低地を越えるため路盤は高々とかさ上げされていた。

今その上を走るのは線路ではなく、東電の鉄塔と「田無線」の名を持つ高圧電線。

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合川の対岸に目を移すと、古びたアパート右手の茂みのあたりで、護岸が張り出しているのがかろうじて確認できる。これがかつての橋台跡で、近年改修が行われる前の落合川の本流は、そのすぐ手前を流れていた。

新旧河道に挟まれた小さな平場にも、どういう経緯か西武鉄道用地の看板が立っている。

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すぐ下流側には池袋線の橋梁がかかり、電車がするすると走り抜けていく。

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川を渡って少し坂を上ると、そこから引込線跡は市が管理する「たての緑地」として開放されている。ところどころ鉄塔を迂回しながら、だらだらとした舗装路が続いていく。

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全長2.84kmのこの引込線はその名を「東久留米駅構外線」と言い、昭和19年、軍用機のエンジン部品を製作していた中島航空機田無製造所への貨物線として敷設された。鋳型に使用する砂や燃料を積んで、小型の蒸気機関車が田園風景の中を往来していたという。

緑地には朽ちかけたベンチのほか、教育委員会名義の説明板が整備されている。

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駅を離れるにつれ風景にはビニールハウスが増え、採れたて野菜の無人販売所もちらほらと…。それでも周辺には、新築や比較的新しい戸建て住宅も多く見かける。

自由学園の裏手あたりは、水路を跨ぐため大規模な築堤となっている。通行路はフェンスに仕切られているが、その外側も含め線路敷はかなり広い。

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水路を越えると盛土は一転して切通しに変わる。こうやって勾配を極力抑えた縦断線形に、貨物鉄道らしさを見ることができる。緑地は犬の散歩やジョギング、隣接する中学校の登下校路として、地元の生活に密着し活用されているようだ。

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切通しを抜けると、広々とした大地の風景が広がる。畑と、青空と、高圧線と…。

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緑地はひばりが丘団地に辿り着くその手前で、逃げ場のないフェンスに阻まれ中途半端に終点となっていた。回り込んだ先はタクシーの駐車場となっており、線路の面影は完全に失われている。

引込線はここからフック状のカーブで進路を変え、左手奥にある工場へとなお続いていた。

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ひばりが丘団地は中島航空金属の工場敷地西側と、さらに西側の農地を基盤として1959年に造成された。当時の公団住宅らしい二階建てのテラスハウスや、星の形をしたスターハウスなどを擁していたが、老朽化により建て替えが進みそれも完了に近づきつつある。

なお、工場敷地東側は住友重機田無製作所として存続してはいるが、近年マンションや商業施設への転用が進み、敷地南東端の一区画に規模を縮小している。

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16時を少し回ったばかりなのに、風景はすっかりセピア色。

東久留米駅への帰り道、落合川の手前で行き止まりになったその先の風景…。線路は2軒の建物の間、木立のあたりから橋梁を渡っていた。駅近くの大規模マンション、古びた佇まいながら人いきれを感じる木造アパート、そして歴史に消えた軍需路線跡。

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町に歴史あり。それを紐解いていく作業は、何気に楽しい。


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