清瀬駅側線と黄金列車の話(2017/1/14)

清瀬から池袋に向かって左手の車窓には、錆付いた側線が200メートル余にわたり並行しているのが見える。傍らには保線用資材が積まれているものの、使途のわりに長い気がして子どものころから不思議に思っていた。

そこで、図書館や自宅にあった郷土資料を片っ端から紐解いてみたところ、見えてきたのは戦後の一時期に西武線を走った黄金列車の影だった。

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清瀬駅が開設されたのは1924年、現在の池袋線武蔵野鉄道が開業させて9年後のことだった。有志が土地を出し合って誘致したというこの駅は、小屋のような駅舎と駅前には桜の木が2本植わっただけの、訪れた人がその小ささに驚くほどの質素なものだった。

1943年の空中写真(国土地理院ウェブサイトより加工して作成、以下同じ)からは、何にもない畑の中の田舎駅の様子が見て取れる。

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そんな清瀬駅に転機が訪れたのは、1944年のこと。戦時下の燃料や人手の不足で糞尿処理に行き詰った当時の東京都長官の要請で、旧東京市域で生じた糞尿を郊外の農村地帯に堆肥として運搬する役割を武蔵野鉄道が担うことになったのだ。

武蔵野鉄道の糞尿輸送は1945年に開始された。積込駅として練馬区内に長江(廃駅)を新設し、取卸駅とされた清瀬など3駅には貯留施設「糞尿処理大溜」が整備された。1948年の写真には、駅の北東に急造されたコンクリートの溜め池がはっきりと写っている。

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駅東側の部分を拡大して見ると、単線だった本線の北側には並行して側線が作られているのがわかる。これが冒頭の側線と思われ、貨車はここで下部のハッチを開放し、あとは重力の作用により「積荷」を貯留槽へと流し込んでいたのだろう。

影の付き方からすると蓋すらない、かなり開放的な施設だったようだ。

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当時の西武・堤康次郎が並々ならぬ意気込みで受けた糞尿輸送も長くは続かず、燃料事情の好転や化学肥料の普及により1951年には休止となり、再開されることなく1953年に廃止された。しかしその功績に対して、東京都からは感謝状が贈られたという。

1955年の写真には、使われなくなり泥が溜まったような貯留槽の姿が見える。この2年前に清瀬以東の複線化が完了しており、駅舎は片流れ屋根の二代目に建て替わった。秋津方に設置された引上線では、4両編成の電車が折り返しを待っている。

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廃止後の貯留槽については、「写真集 清瀬のあゆみ」(清瀬市郷土博物館)に興味深い記述がある。日本が高度経済成長を遂げるこの時代、発生するゴミの量に処理能力が追い付かず、清瀬でも溢れたごみは雑木林や町中に投棄されていたという。

そんな中の、一枚の写真とキャプションを引用させてもらおう。

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ごみ捨て場になっていた駅北口 昭和38年9月 清瀬駅北口 北口付近の一部(現在の西武バスの車庫付近)は、ごみ捨て場と化していました。」…貯留槽はおそらく撤去されるより早く、格好のゴミ捨て場として歴史の中に埋もれていったのだろう。

1968年の写真には貯留槽の姿はなく、跡地は不鮮明だが荒地か駐車場に変わっている。この前年に駅を南北に跨ぐ陸橋が完成し、南口に駅前広場が整備された。

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1969年に清瀬駅での貨物扱いが廃止されると、生み出された空間を利用して駅の拡張が行われた。清瀬町が市となった1970年には橋上駅舎が竣工し、またホーム延伸に伴い引上線が大踏切西側に移設されるなど、駅は現在に近い姿へと大きく変わっている。

しかし件の側線は保線用と役割を変えながら、この大変革にも奇跡的に生き残ってきた。

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1995年の北口再開発完成、2009年の新小金井街道清瀬立体開通と続き、南口再開発も市が検討に着手するなど、駅や街は今も変化の中にいる。その一方で、戦後の糞尿輸送のため整備された貯留槽跡地や側線が、何とはなしに残されているのが面白い。

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東京に寒波が訪れたこの日、西武バスと時間貸の駐車場になっている貯留槽跡地を覗いてみた。路面にはコンクリートが打たれているものの、全体的に不陸が多いうえ道路との段差の擦りつけも大味で、きちんと整地され整備されたという趣きではない。

何を言いたいのかというと、このコンクリートを剥がせば、下からは大量のゴミとともにかつての貯留槽が発掘されるのではなかろうかと。その際にはぜひ、立ち会ってこの目で見てみたいものだと思う。

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さて。空中写真のコンクリート構造物が本当に糞尿の貯留槽なのかを検証するため、当該輸送を担った池袋線の他の駅もざっと見てみることにしよう。

狭山ヶ丘駅 飯能方の本線東側に、貯留槽と側線が見える。1面の島式ホームと西側の側線はあまり変わっていないものの、東側は住宅地に飲み込まれ現状跡形もない。

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高麗駅 吾野方の本線北側に、同じく貯留槽と側線が見える。今は三菱セメントの貯蔵タンクが建っている位置だけれど、それ自体も廃墟と化した。

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長江駅 糞尿の積込みのため設置された駅で、東長崎~江古田間の本線南側に側線1本を持っていた。糞尿輸送終了後は西武市場駅と名を変え一般貨物の取扱いを始めるも、1963年に廃止され今は日通の流通センターになっている。糞尿を投入するために嵩上げされた、アプローチ通路がなんかすごい。

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