不時に舞う桜と吉野(2017/4/15~16)その4
2日目 橿原・吉野→東京(2/3)
賑やかな県道に戻り、灼熱となってきた日差しの下をさらに奥へと向かう。
少し行くと分岐があり、ここで尾根から下りる県道を捨て、細く急な上りの道に折れる。閉口したのは、人だけじゃなく車の通行が多いこと。ここに限らず、狭い道を車に塞がれ進退窮まった場面がいくつかあった。
長い坂を上り切り、勾配が少し落ち着いたところにあるのが櫻本坊。のちの天武天皇が冬の日に桜が咲き誇る夢を見たことから、桜の下に寺院を建立したのが始まりという。
こちらも桜の時期にあわせ、特別ご開帳中。肝心の桜はもう、萎んでるのが多かったかな…。御朱印が期間限定を含め3種類あって、どれか選べるようになっている。ブームにも乗ったんだろうけど、こういうお楽しみは吉野山のいくつかの寺社で見られた。
道は再び上り坂となり、家々の間をだらだらと続いていく。それが平坦になった先に三叉路があって、そこに竹林院前のバス停がある。吉野山は奥千本に至るまでバスが通じており、混んでなければ往きはバスで、帰りに下りながら観光するのが賢いんだとは思う。
このあたりは細い道が入り組んでいて、ちょっとわかりづらい。そしてまた、ここから始まる上り坂に辟易…。このあたりは変化が乏しく、足が本当に重く感じた。
坂道は休むことなく、見通しのきかない切通しや林の中を続いていく。そんな道が前方でカーブに差し掛かると、左手の木立が切れ、風景が一気に広がってくる。そこにあったのは、上千本の押し寄せるような桜たちの群れ。
これまでの難行苦行の全ては、このサプライズへの伏線だったのかと思わせるほどに。
これが「染井」なんて偽りの冠はいらない、本当の吉野の山桜。
吉野山に桜が増えるきっかけは、修験道の開祖とされる役小角が修行を積んだ結果、金剛蔵王菩薩が出現したことにあるとされる。それに感得し桜樹に蔵王権現像を彫ったことから、以降桜を神木とし、その苗を寄進する風習が起こったという。
この桜たちには、平安時代からのそんな長い歴史の中にある。
道路はここからヘアピンカーブとなって、見上げるとうんざりするような急斜面に消えている。しかしちょうどそれが、桜を愛でる絶妙なひな壇になって。
吉野山は斜面が多かったり、家が建てこんでいたりとゆっくり桜を見られるところは意外に多くない。しかし、このあたりの斜面には園地も整備され、吉野山観光のひとつの到達点となっているようだ。そんなわけで、そこには鈴なりの人々が…。
ひな壇を上り切ると、道は苔むした石積みの切通しをくぐって狭い尾根上に出る。その先の「上千本の終点」とも言える場所に、吉野水分(みくまり)神社は立地している。
この神社は、大和川水系に配された大和国四所水分社のひとつで、起源は不明だが806年ごろ現在地に遷座してきたものという。社殿は1605年に創建されたもので、安土桃山文化を反映した派手な色づかいに特徴がある。
参拝を終え鳥居の手前の道を右手に入ると、多くの旅人はここで引き返すのだろう、嘘のように人波は落ち着き、奥千本へ向けじめっとした風景に変わる。アップダウンを繰り返す道のりは、帰りを考えると気が重くなる(笑
やがて杉林が切れ光が射すのが見えると、その先に金峯神社の鳥居が見えてくる。奥千本に辿り着いたと安堵するも束の間、その向こうに続く急勾配の参道を見てまたげんなりする(笑 この精神的に揺さぶりをかけられる感じが、さすが修行だと思った(笑
なおこの鳥居の手前に、奥千本入口のバス停があったりする。
わずかに桜の咲く参道を上り切って、ようやく辿り着いた金峯神社の本殿は、杉や桜の古木に抱かれた意外なほど小さなものだった。
階段の下に社務所があって、そこで今日6つ目の御朱印をいただく。その脇からは林の中に入る小さな道があり、そこを降りると義経が弁慶から逃れるために隠れたという「義経隠れ塔」がある。そんな伝説を目の当たりにできる、吉野山とはタイムカプセルのようなところ。
ここまで歩くこと4時間、時刻は13時半に迫っていた。もう少し先まであるようだけど、これを最終到達点として山を下りようか。いやその前に、どこかでこひつじの写真撮らないと(汗
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