六郷用水と東京府の面影(2013/7/21)

六郷用水は、現大田区南部地域の灌漑を目的として、西暦1600年前後に開削された用水路。東急東横線を境に上流は丸子川として残り、下流は埋め立てられ主に道路に転用されているが、一部が道路と並行して復元水路として整備されている。

当時の用水は多摩川上流の現狛江市内で取水され、多摩川と並行しながら少しずつ高低差を稼ぎ、現大田区西嶺町付近で武蔵野台地に割って入るように内陸部へ流下していた。武蔵野台地から割って出てくる等々力渓谷の、ちょうど逆パターンかな。

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東横線多摩川駅に降りる。地名としては大田区田園調布だけど、それでもまだ庶民が住めそうなエリアかね? 駅の東側は公園として整備されていて、住環境としては申し分ない。この駅には独特の開放感があって、それは以前から好きだった。

駅を出て東急多摩川線沿いを南下、踏切を右手にもう少し歩くと、高さ制限の標識とともに石積みアーチのトンネルが見えてくる。これが、六郷用水が中原街道をくぐっていた沼部隧道で、その建設は東京府時代の昭和9年まで遡る。

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首都直轄統治の国策により東京都が発足したのが昭和18年、この地が区部に編入されたのは昭和20年のこと。隧道建設当時は調布村からようやく町制を施行したばかりの、「東京府荏原郡東調布町」だった。

隧道内にはその歴史を証明するように、東京府の府章の入った人孔蓋が2枚残されている。しかし不思議なことに、東京都の下水道台帳を見てもこの蓋に該当する人孔の表記がない。

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幅員25メートルの中原街道をくぐる沼部隧道はそれなりに長いものの、トンネル特有の陰湿な雰囲気はない。隧道を抜けた左手は緑豊かな武蔵野台地の崖線となっており、六郷用水の復元水路はここから始まっている。

等々力渓谷と同様に、崖線からはいくらか湧き水があり、復元水路の水源ともなっているようだ。近所の人が放したのだろうか、水路には大きな鯉やカメが悠々と泳いでいる。

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そしてどこから来たか、カルガモ親子も。

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かめ。

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夏の訪れを告げるトンボと水車。

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水の流れは500メートルほど続き、多摩堤通りとの合流点で道路に飲み込まれるように途切れる。その先の横須賀線の高架には「六郷用水ガード」と掲げれており、現役の六郷用水を越えていたであろう昭和3年の開業当時の記憶を伝えている。

ガードの先で用水敷の道路は多摩堤通りと分かれ、再び水路も姿を現す。

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途中、交差点から右手を見ると東急多摩川線の線路と多摩川の堤防、対岸の川崎市が望めるが、道路は緩やかな下りとなっており、用水路が崖線に張り付き次第に高低差を稼いでいる様子が見て取れる。

用水路は周囲の土地より高いところにあって、はじめてその役割を果たすことができる。これだけの高低差のために、六郷用水は10キロ以上離れた狛江からわざわざ水を運んできたのだ。

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復活した水路もほどなくして消え、これを最後に水面が顔を出すことはない。道路はこの先でS字カーブと急な上り下りで、武蔵野台地から張り出した尾根を越える。「女堀」と呼ばれるこの付近は、その高低差と堅い地盤に用水建設当時は難儀したと伝えられる。

かつての六郷用水はこの難所を、深さ7.5メートルもの掘割により克服していた。土工事は重機のある今でも手間と時間がかかる仕事、当時の7.5メートルは途方もない深さだったに違いない。2~3メートルほど嵩上げされた現在でも、周囲は掘割らしい鬱蒼とした雰囲気が残っている。

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尾根を反対側に駆け下りると、用水敷は再び平坦性を取り戻す。このあたりからが、六郷用水が目指していた旧六郷領となる。この地点での多摩川縁との高低差は4メートルに達する。厳しい尾根越えを経て、六郷用水は必要な高低差を獲得したのだ。

用水敷は環八通りを斜めに横断し、幅の広い植栽帯を持った道路として環八通りに絡みつくように続く。「下丸子への分水口跡」や、大森方面と蒲田方面を分かつ「南北引分」は標識のみで遺構はなく、用水敷は次第に街に同化していくようだ。

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歩道上にはいやに大きい下水道の人孔蓋があるが、六郷用水は完全に埋め戻されており、それとは関係なさそうだ。下水道台帳は地下の水の流れを詳細に記述した地図であり、地上の地図と同様、あれやこれや想像を膨らませられる。

90分ほどの探索を経て、帰路は東急池上線千鳥町駅へ。この駅の開業も、東京府時代の大正15年だ。池上線も3両編成のままながら、最近めっきり新しい電車が増えた。変わりゆく街。でも、周りを見渡せばふとしたところに歴史が埋まっていたりして…。

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そんな些細なことを感じながら、日々暮らせればいいなぁ。