長崎・福岡 ゆとりの旅(2014/9/20~23)その2
2日目 長崎(1/2)
6時起床…のつもりだったが、結局二度寝して6時半起床。準備をして、8時ごろホテルの朝食へ。期待してたものの全体として種類が少なく、「これ」というものもない感じかなぁ。もう一泊するから、明日はちょっと変えてみよう。
9時ごろ出発。昨日下見しておいた、「軍艦島上陸クルーズ」の集合場所までは徒歩で10分程度。ホテルのある繁華街から海岸沿いまでは、尾根を一本越えていくような道になる。夜のうちに雨が降ったのかなぁ、路面が濡れてるね。
元船桟橋近くのクルーズ事務所で誓約書を書いて、乗船料3,100円と入島料300円を支払ってから、桟橋へ移動して乗船。今日は満席というこのクルーズ、定員195名っていうと小型船だけど収容力あるんだね。
9時40分出航。細く長い長崎港を進み、その突端付近で女神大橋をくぐる。
右手の窓からは、今は陸続きとなっている「神の島」の教会が見える。文献によると、この島はもともと「隠れキリシタン」が多く、この教会は明治年間に当時17戸あったキリスト教の家庭が協力して作り上げたものという。
断崖の上に立つマリア像は、その後1949年に建てられたもの。
経過地の伊王島でもまとまった乗船があり、船は高島に立ち寄ったあといよいよ軍艦島へと向かう。出航から45分ほど経ったころ、中ノ島の島影からついにその威容を現してくる。いや、確かに「軍艦」だよ…。
10時40分ごろ、船着場に接岸。護岸を貫いたトンネルをくぐって、軍艦島こと端島に上陸する。真っ先に目に入るのは、鉄筋コンクリート7階建ての端島小中学校。日本一の高層だったこの学校も、つい三日前の荒天で最上階が崩壊したという。
海上という厳しい条件のもと、40年来野ざらしの建造物は自然崩壊が進んでいる。
ガイドの案内に従って、見学は全体行動で。見た感じリーダー格の男性が説明をしてくれるんだけど、この語りがとにかく上手いというか、聴かせるというか(笑 ツアーで行けるのは島南端3つの見学広場のみ、それでも見せ場はたくさんある。
レンガ造りの総合事務所。壁が白いのは海水由来の塩分のせいで、昨日今日と降った雨のおかげで今日はレンガの地色が見えるとのこと。
端島の石炭採掘は、1890年ごろから始まった。当初岩礁だけだった島の周りは次第に埋め立てられ、生活に必要な施設が整備されるなど最盛期の人口は5,259人を数えた。その後石炭採掘は1974年まで続く。
坑口桟橋跡。ここを上り下りした炭坑夫達の足跡が、階段の真っ黒な滲みとなって未だに残る。背後の丘の上にそびえるは、島民の悲願として1957年に開通した水道の給水タンク。
操業停止を受け住民は退去し、1974年4月に端島は無人島となった。数千人規模の人口が短期間で姿を消した町も珍しいのではなかろうか。多くのコンクリート構造物が、足並みを揃え静かに終末を待つかのようだ。
この島の西端で、防波堤を兼ねていたアパート群。波の穏やかな陸側は港があり、結果炭鉱関連施設の敷地となる。必然的に、環境の悪い西側が人の住処となる。この柵の向こう側に、かつてはたくさんの人々のざわめきがあった。
足元には、当時珍しかった、25メートル×6レーンのプール跡。しかし、プールの水には最後まで海水が使用されていたという。鉄筋コンクリートがあらかた朽ちた今でも、レーンを区切る白線がはっきりと残っている。
ほぼ色のない世界において、こぴよの鮮やかな黄色が映える(笑
下船から30分ほどで、一旦ガイドは終わり。船に戻るまで束の間の自由行動となるが、今日は全体的にスケジュールが押しており、帰路は駆け足に…。
閉山以来40年、その威容で鉱山の歴史を物語ってきた端島だけど、すべてがガレキと化す日も近いのではなかろうか。破壊面の新しい護岸の崩壊も多く、いつか自然の力で元々の岩礁に戻っていくのかもしれない。
帰りは高島で一旦下船。ここで15分ほど時間が取られ、端島の縮小模型を前にしたガイドと、隣接する「石炭資料館」の見学を行う。石炭資料館には小さいけれど端島のコーナーがあって、海底深くに広がる坑道の模型なんかは面白い。
島ネコ発見。ネコってバイクの上好きだよね。
11時55分出航。船内は端島の解説ビデオが映されるも、疲れて寝てる人が多いかな。往路と同じく伊王島に寄って、12時50分ごろ長崎港元船桟橋到着。3時間ほどのツアーだけど、慣れない船で内容は盛り沢山だから、けっこう疲れるね(笑
軍艦島ツアー自体は3社程度が競合していて、それぞれ長短はあるみたい。自分は単純に、スケジュールとの兼ね合いで決めたけど。
ちょうどお昼の時間。500メートルほど離れた水辺の森公園で「DEJIMA博」というイベントが開かれ、全国の食の出店があるとのことなので覗きに行ってみる。
しかしここに来て、どうやら雨が…。
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