道東・道北 原点の旅(2007/8/23~26)その4(終)
4日目 稚内→東京
6時ごろ起床。北海道の4日間、ずっと青空に恵まれた。
9時にチェックアウト、稚内駅へと市内を散歩。土地柄ロシア語の溢れる街並みには、賑やかな時代を想起させる味のある建物が転がっている。古びた看板建築の商店とか。
有力な商家だろうか。どれもこれも、ストリートビュー見ると現役なのが嬉しい。
正面の玄関脇に、「日本最北端」と掲げられた稚内駅。この後2012年に建て替えられ、この駅舎は過去の思い出となった。そして近年の「建て替え」は、「縮小」と同義だったりするのだ。
列車の時刻まで、駅周辺をぶらぶらと。線路端部の車止め付近には、「最北端の線路」の標識があった。稚内港が樺太への連絡で賑わっていたころは、ここから桟橋まで線路が敷かれ、駅構内にもたくさんの側線が並んでいた。その後の航路停止、貨物廃止と縮小され、今では最低限の旅客設備を有するのみとなった。
樺太への連絡船ターミナルだったところにある、「稚内港北防波堤ドーム」。現在のものは1980年に建て替えられたものだけれど、当初は桟橋への連絡通路を兼ねるということでこの形状になったという。ローマ神殿を思わせる独自の意匠は世界でここだけらしい。
今日は穏やかな最果ての海に、ドームの出番もないだろう。
稚内駅に戻り千歳空港までの乗車券を購入、途中の名寄まで行く列車は一日4本しかない。とりあえず、ここから4時間弱この列車に揺られることになる。
11時ごろ発車。稚内を出た列車は、市街地を縦断し南稚内に停車する。南稚内を出るとすぐに線路は緑の森の中に入り、海岸線から丘の上へとエンジンの音を響かせて上っていく。ちょっと霞んでしまったけど、車窓右手に浮かぶのは利尻富士の雄姿。
南稚内から次の抜海駅まで、列車は10分以上の時間を要す。抜海駅の周囲ではこの春に小中学校が廃校となり、周囲には人家が数軒残るのみという。最北の厳しい環境の中、生産性はよくなかっただろう。
抜海を出ると線路は内陸に進路を変える。車窓にはしばらく雄大な酪農風景が続くが、幌延を過ぎたあたりから次第に山がちになってくる。天塩中川~音威子府付近で天塩川の刻む難所を越えると、あとは悠々とした流れを横目に名寄へと下っていく。
豊清水にて、列車交換の小休止。酪農地帯の駅だけれど、駅前から見えるのは朽ち果てた建物ばかりでだいぶ離農が進んでいるよう。「豊清水」をはじめ開拓地の地名は美しく、夢がある。だけどもう人がいない、そんなところに寂しさを感じる。
美深からひとつ渓谷を越え、平地が広がってくると列車は名寄駅に到着する。木造の跨線橋を渡って、ここで2両編成の旭川行き快速列車に乗り換える。
快速列車はしばらく平地を走ると、塩狩峠で天塩川と石狩川の分水嶺を越える。旭川盆地の農村風景から市街地が広がると、間もなく高架化工事中の旭川駅に到着。稚内から6時間弱、さすがにお尻が痛いけど、ここから「特急ホワイトアロー」に乗り換えまだまだ列車旅は続く…。
時間に余裕があったため、札幌で途中下車して軽く観光でもなどと考えていたものの、さすがに疲れていたので真っ直ぐ千歳空港に向かうことにする。札幌から快速となった列車で居眠りをしながら、18時ごろ列車は終点新千歳空港に到着する。
お疲れ様でした。
売店でお土産を選んだあと、フードコートにて豚丼と地ビールの会。空港で地のものを食べようと思っても、案外それに応えてくれる店って多くない。なんだか体が元気じゃなくて、いわゆる「吸い込み」が悪かった。
20時35分発JAL542便、帰りもクラスJで。このあたりからもう、時間が加速する。
22時ごろ羽田空港到着。荷物を受け取って、この時間だと西武線方面へのリムジンバスもないため、京急に乗って品川に出る。山手線から池袋で西武線に乗り換えて、帰宅したころにはもう日付が変わっていた。
お土産は記録してないけど、この頃は六花亭のバターサンドとストロベリーチョコが定番だったはず。北海道土産で「白い恋人」を買うことほど、自分の中で陳腐なことはないと思っている…(笑
「日本一シンプル」と言われた、西武線の駅名標も懐かしいなぁ。
タイムスケジュール(4日目)
9:05 チェックアウト
9:15 稚内副港市場
9:30 稚内駅
9:45 稚内港北防波堤ドーム
10:30 稚内駅
11:00~14:20 稚内→名寄
14:25~15:50 名寄→旭川
15:55~18:00 旭川→新千歳空港「スーパーホワイトアロー」
18:40~19:20 夕食
20:35~22:15 千歳空港→羽田空港「JAL542便」
この旅の記録
日高地方関連の過去記事