渡良瀬遊水地(2014/11/23)

以下ヨシ原の写真しか出てこないので、せめて朝食の「鮭はらこ弁当」でも…(笑 ご飯が足りなくなるほどのおかずのボリューム、ちょっと味が濃い気がしたのが残念かな。

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さて。小学校の教科書で足尾銅山鉱毒問題を知って、それから一度は行ってみたかった渡良瀬遊水地。とは言えなかなか行くようなところでもなく、今日は始発で東京を発ち栗橋で車に乗り継いで到着はやっと10時前…。

外堤を斜めに乗り越える形で遊水地内へ立入ると、そこはヨシが繁茂したただそれだけのだだっ広い世界(笑

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そもそもの渡良瀬川は、利根川と並行して関東平野を縦断し、現在の江戸川の流路で東京湾へ注いでいた。それが1600年代の利根川東遷に伴って支流となり、その合流部より少し上流のこの地は、谷田川や思川、巴波川が合流する大湿地帯となっていた。

建設省の境界杭が転がる先に見えるのは、管理棟を兼ねた「ウォッチングタワー」。

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大湿地帯の中心部を開墾した谷中村たったが、1880年ごろから顕在化した鉱毒の影響のほか、上流部の禿げ山化に伴う河床の上昇も手伝って、特に1896年に起こった三度の大洪水により田畑に大きな被害を受けた。

その対策として打ち出されたのが渡良瀬遊水地の建設計画であり、それは敷地に取り込まれる谷中村を廃村にするという何ともシニカルなものだった。紆余曲折はあったものの、1906年に谷中村は藤岡町に統合され、1930年に遊水地は完成した。

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タワー屋上から見渡す景色。左手奥に常時水を張っている渡良瀬貯水池(谷中湖)が見えるが、これは1990年に首都圏の水がめとして運用を開始した新しいもの。遊水地にはいくつもの人口水路が刻まれている。

今でも遊水地のこの風景の中に、旧谷中村の遺構がほんの少しながら残されている。

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その後も遊水地は拡張を続け、最終的には山手線に囲まれた面積の約半分に匹敵するほどの規模になった。敷地は群馬、栃木、茨城、埼玉の北関東四県にまたがる。

渡良瀬遊水地では過去12回の洪水調整実績があるとのことで、逆に言えばほとんどの期間がこの平凡なヨシ原の状態ということだ。さすがに内部には運動公園が作られ、その他魚釣りやバードウォッチングなど地域の人々が思い思いに利用している。

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敷地が広いため車でのアクセスが無難だろうけど、一応東武線の柳生~藤岡の各駅からレンタサイクルも利用できるとのこと。まぁ目立った何かがあるわけでもなく、事前知識がなければ単なるヨシ原なんだけど(笑

でも、空が青いとほんっと気持ちいい。

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鉱毒事件で活躍した田中正造の出身地、佐野まではここから10km弱。ヨシ原ばかりでもあんまりなので(笑、ちょっと佐野にも足を伸ばそうか…。