東久留米駅北口と少しだけ前のこと(2015/10/7)

2012年2月に新装なった、東久留米駅北口とEmio東久留米。

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なんだかオシャレになったこの駅だけど、ほんの4年前までは1949年築のこんな骨董品が建っていた。さらに1994年の橋上駅舎完成まで、ここが東久留米駅の表口であり、唯一の出入口だった。(以下2007/6/30撮影)

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薄暗いホームの上屋はもちろん木造。池袋方の踏切移設後移転、4線化する計画に足を引っ張られ、所沢方2両分程度はかれこれ40年も鋼管支柱の仮設ホームで、雨の日の通勤客はここに傘を差して電車を待った。

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今はEmioと連絡通路が設置されたここは駐車場に使用され、ホームはその古びた背中をさらしていた。

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まず着手されたのはホームの本設化工事だった。踏切の移設は完了したものの、ホームは移設されず元位置での本設化となった。写真は仮設ホームが改修され、鉄骨の基本構造が立ち上がってきた上りホームの姿。(以下2007/12/23撮影)

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旧駅舎はまだまだ健在で、上りホームに店を構える山本書店も元気に営業中だった。まぁ今で言う「駅ナカ」の走りと言えるのかもしれないけど、そういうスマートなイメージは微塵もなかったのもまた事実(笑 最終的に、2009年1月に閉店となった。

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木質感あふれる駅舎内は、自動改札機や券売機がなんだかミスマッチ。

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ホーム側から見る改札口の景色。左端に写る日めくりのカレンダー、最近見かけなくなったよなぁ…と思ったていたら、今朝清瀬駅にあるのを発見した(笑 でも、誰が何のために必要なんだ?

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改札を入った左手に設置されていた行先案内板。一部目隠しされた部分には、きっと「ユネスコ村」と書かれているんだろう。当時から跨線橋はホーム中ほどにあり、入口から下りホームまでが遠い駅だった。

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新北口の工事が始まり、旧駅舎際にまで仮囲いが伸びてきたころ。(以下2009/7/19撮影)

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仮囲い越しに見える橋上駅舎の、連絡通路が接続される部分にも工事用フェンスが張られている。

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まだ駅舎そのものに手は加えられていないものの、クリーニング店があった左手の開口は閉鎖され、そこにEmioの「建築計画のお知らせ」看板が掲示されていた。

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駅前の工事予定表の下には、北口ファイナルイベントの告知が張り出された。

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旧駅舎最後の「晴れ」の日。当駅をモデルにしたという「めぞん一刻」にちなんで、この日午後の5時間だけ「時計坂駅」の駅名標が掲げられた。なお左手の係員氏が繰り返していた内容は、「ここは東久留米駅です」だった記憶がある。(以下2009/8/1撮影)

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狭い駅前は「市民総出」といった感じで。施設が新しくなるのは喜ばしいことだけど、中には旧駅舎の60年に自分の人生を重ねたような人もいただろう。

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駅名標変更の立て看が立つ改札口。「西武ニュース」のレオマークのラック、これもいつしか見なくなったなぁ。

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そしてついに、最後の仮囲いが始まった。このあと2010年1月、旧駅舎は60年余の歴史にひっそり幕を下ろすことになる。(2009/9/19撮影)

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心配していた橋上駅舎から新北口への連絡通路だけど、Emioと一体化しているためかそこそこ人の流れがある。そして連絡通路の接続付近には、嬉しいことに旧北口駅舎のメモリアルパネルが設置されていた。そこから写真をいくつか失敬すると…。

跨線橋設置、ホーム延伸前の線路側からの風景とか。

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改札から駅前の風景とか。正面の木造建築が、現マクドナルドなのか?

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橋上駅舎も完成から20年が経過し、今はまた窓口周辺の改装工事が進められている。

ホーム外側の壁際に続きそして途切れる、あるはずのない滑り止め工。4線化計画と仮設ホームの名残なんだけど、大げさに言えば成長の時代から維持、縮小へと舵を切った、日本という国の記憶なのかもしれない。

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