富岡製糸場(2017/10/13)その1
夏休消化最終日は、あいにくの雨模様。
9時32分上野発の高崎行きは、小田原始発の上野東京ライン。北関東への旅立ちということで上野を選んだけれど、すっかり中間駅に成り果ててしまった。それでもまだ充実した売店で、「上野弁当」(1,050円)を購入。このたび一新が図られたというが、果たして…。
上野らしい掛け紙をめくると、従前の鮭弁当のイメージは維持しつつも、水戸の業者らしく「駅弁史上最大」と思われる肉厚の梅干しがどーんと(笑 素朴さ重視でインパクトに欠けたこれまでと違い、常陸路の名産が詰め込まれた華やかな内容に変わっていた。
茨城県産コシヒカリ、老舗上野の海苔、大洗吉田屋の梅、鮭、蕪の漬物、煮物(里芋、こんにゃく、花人参、スナップエンドウ)、レンコンのたまり漬け、つくば鶏幽庵焼き、納豆の春巻き、椎茸の肉詰め揚げ、玉子焼き、花子丸、常陸牛しぐれ煮、ごぼう将軍
「常陸弁当」の方がしっくりくるかもね。お品書きを眺め、一品ずつ味わう時間は至福。
高崎到着は11時33分。乗り換え先の上信電鉄は出たばかりだったけれど、旅先での50分待ちは長くない。食券風の券売機で「富岡製糸場見学割引乗車券」(2,140円)を見つけて購入、改札をくぐると地方私鉄御用達の「鉄道むすめ」が出迎えてくれた…(笑
しばらくすると2両編成の電車が到着、折り返し下仁田行きとなって12時13分に高崎を後にする。車内は意外にも立ち客が出る混雑だったが、それも4つ先の高碕経済大学前まで。以降は田舎電車らしいムードで、田園地帯を快調に駆けていく。
所要40分弱で、12時50分上州富岡駅に到着。ここを訪れるのは10年ぶりになるけれど、世界遺産、富岡製糸場の玄関口として、駅もレンガ風の瀟洒なものに建て替えられていた。
改札で切符を見せると、「どうぞ」と製糸場までの案内図が渡される。これがまた、帰りの電車の時間もコンパクトに収められた優れもの。まぁ製糸場までは10分程度で、一度来ていれば迷うこともないかな。道中、雨は相変わらず降り続いたままで…。
そんな道のりの向こうから、いよいよ赤レンガの建物が近づいてきた。
正門脇、1873年築の「検査人館」でスタンプを押してもらい入場。
富岡製糸場は、1872年に国営模範工場として開業した日本初の本格的な器械製糸工場。後に民間に払い下げられ、いくつかの経営者の手を渡りながらも、1987年に廃業するまで一貫して製糸工場として運営されてきた。その後も放棄されず維持されたことが、2014年の世界遺産登録につながっている。
入場して最初に出迎えてくれるのが、木骨レンガ造の特殊な構造にアーチ状のエントランスを有した1872年築の「東置繭所」。この1階が展示コーナーになっていて、パネルや模型、映像で養蚕や製糸場の歴史を一通り勉強できるようになっている。
この際、開業当時を再現した模型を使って、場内をざっと説明してしまおうか(笑
向かって右手が正門で、縦方向に走る細長い建物が「東置繭所」、その対面が「西置繭所」、相互を結ぶよう横方向にあるのが「繰糸所」となっている。その「Uの字」形を中心として、手前の「首長館」など関連施設が時代時代で周囲に配されてきた。
そして肝心の繭は、外階段から上がる2階…何とも神秘的だけど…に保管されてきた。
開業当初は初夏に出荷される春蚕(はるご)を使っていたため、1年間稼働するのに巨大な保管庫が必要だった。夏蚕、秋蚕と出回るにつれ、次第に雑多な倉庫に転用されていくものの、それでも繭の乾燥が重要な製糸工程にこの空間は欠かせないものだった。
2階の中庭側にはバルコニーが配され、赤レンガと白く塗装された木材との調和が味わい深い。一方で建物の老朽化も顕著に見られ、「西置繭所」が保存修理工事中なこともあって、製糸場全体で立ち入ることができるのは「東置繭所」と「繰糸所」の2棟に限られる。
そんな「繰糸所」も木骨レンガ造ながら、フランス製の大きなガラス窓が並ぶ明るい室内に柱のない木造トラス構造は、置繭所とは全く違った表情を見せる。通路を中心にずらっと並ぶ繰糸機は、社会科の教科書でいつか見た風景そのまんまだわ(笑
現在並んでいる機械は1987年の廃業時に使われていたもので、当初のものは長野県内の博物館に現存するというから、そちらもいつか訪ねてみたい。
年期を帯びた機械の、油の滲みた感じがいいね…。煮られた繭から糸口を探し出し、機械で巻き上げる作業は、蚕の生命が絹糸に昇華される過程とも言える。仕上げの工程を経た絹糸は、最後に検査人たちの目を通ったのち世界へ向け出荷されていった。
ここまでこひつじが登場しないのは、天気が悪いのと世界遺産らしい?ガードの堅さのせい(笑 そぼ降る雨は未だ止まずだけど、少し外を歩いてみようか。
10年前、2008年2月17日の上州富岡駅。富岡製糸場の一般公開は2005年から始まっていたけれど、このころはどこにでもある、「普通」を絵に描いたような駅舎だった。
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